2008年04月09日
ヤン・マテイコの生涯
この人物はほんとに偉大なんだと気づかされました。
ポーランド分割のさなか、オーストリアによって併合されていたポーランド領の一部自由都市クラクフで、マテイコは生まれた。父フランチシェク(Franciszek Ksawery Matejko)はフラデツ・クラーロヴェーにルーツを持つ、カトリックのチェコ人だった。フランチシェクは家庭教師として働き、最初はKościelnikiのWodzicki家の元で音楽教師をした。クラクフへ移ってから、彼はドイツ人とポーランド人の両親を持つプロテスタントの女性、ヨアンナ・ロスベルク(Joanna Rosberg)と結婚した。ヤンは11人兄弟の9番目の子であった。ヤンはカトリック教徒として育てられた。1846年に母が亡くなると、マテイコと兄弟たちは叔母アンナ・ザモイスカが世話をした。
幼年時代のマテイコは、近眼のため他の教科で非常に悪戦苦闘していたにもかかわらず、進級に次ぐ進級を許されるほどの突出した芸術的天性をを見せていた。少年のマテイコは外国語を身につけることができず、母国語であるポーランド語ですらチェコ語の訛りのせいで、巧みとは言えなかった。
幼いマテイコは、1846年のクラクフ反乱と1848年のオーストリア軍によるクラクフ包囲戦を目撃している。2つの事件は自由都市クラクフの成立で終わった。彼の2人の兄、次兄エドムントと三兄ジグムントは兵士として、2度の事件においてポーランド側のユーゼフ・ベム(en:Józef Bem)将軍のもとで戦い、ジグムントが亡くなっている。
彼は聖アンナ校(en:Bartłomiej Nowodworski High School)へ入学するが、1851年に成績が悪いせいで退学した。それにもかかわらず、彼の飛び抜けた才能のために1852年からクラクフ美術学校(当時はヤギェウォ大学の芸術専門学校。現在はヤン・マテイコ美術学校)で学ぶことになり、ヴォイチェフ・コルネリ・スタットレルとヴワディスワフ・ウシュチュキェヴィチ(Władysław Łuszczkiewicz)から指導を受けた。
この頃、彼は芸術友好協会に歴史上の事件を題材とした絵を発表し始めた。
政府から奨学金を受け、1858年にミュンヘン美術アカデミーで歴史画家ヘルマン・アンシュッツ(Hermann Anschütz)の元で学んだ後(ここでマテイコは男性の裸体像を描いた作品で銅メダルを獲得している)、1859年から1860年にかけウィーン美術アカデミーで学び、彼はクラクフへ帰郷した。以降彼は生涯をクラクフで過ごし、1873年にヤギェウォ大学から独立した母校、クラクフ美術学校の初代校長となった。
- Permalink
- by
- at 15:26
- Trackbacks (0)